首里手の特長は、まず第一に瞬間的に力を集中することにより武力をだすことである。この点、剣の打ち込みと相通ずるものがある。
故人曰く 『武は速さを尊ぶ』とか。あらゆる武の第一義は技の速さである。速さプラス重さが破壊力であるとするならば、鍛錬による速さで重さをカバーするまでに修練を積まねばならない。
闘いにおいて、敵がひとりの場合と複数の場合、また闘う場所が狭いか広いかの違いによってもその闘い方が異なる。周囲の状況に応じた判断を素早く行いそれに対処することが大切であり、その咄嗟の判断を誤ると、命取りとなるので心せよとのことである。
小林流の呼吸法は自然のままであり、取り立てて言うほどのものはない。呼吸は吸うときは力はとれないし、吐き出すつくす寸前に力がとれる。つまり、武術的に言えば、吸うときは虚であり、吐き出しつくす寸前が実である。呼吸は虚と実との繰り返しともいえる。
小林流は、構えや呼吸法に無理がなく自然である。力のとり方は、内から外へととるため、内臓を圧迫せず無駄な筋肉疲労も少ない。また、瞬間的に力の集中が容易となり、速さが増し、攻撃力や敏捷性が高まる。
どんなにきれいな型をやっても、武力がなければ空手にならないとも言われる。
武力の鍛錬は巻きわら突きを基本とし、拳や手首を鍛え、様々な方法で手足を鍛えることにより、破壊力を養うことが大切である。
常日頃の型や巻ワラの鍛錬において、攻撃力を養成すると同様、防衛力のそれにも力を入れなければならない。相手の攻撃に対してただ防御するだけではなく、攻撃力を制する防御、即ち単なる受けではなく、受けそのものが相手を打ち砕く威力をつけることが、攻防一如の要領を習得できるのである。
実戦の場では、一瞬の攻防で勝負が決する。そのためには、一発の破壊力を、手足や、肉体の全てに備える必要がある。
組手(競技で行う組手ではなく、小手鍛えや相手との攻防を行う、組み技などを意味し、沖縄ではクミティーと呼ぶ)や、巻ワラ突きを何百回と繰り返し、この突いたら突き抜くという一撃必殺、一手勝負が小林流の特長として受け継がれている。
空手をする人は、仕事でも遅刻や無断欠勤をせず、一所懸命に働くため、上司や職場仲間にも信頼され、おのずと出世もしていき、結果的に財をなすことになる。と話されたことがある。
一切の無駄な動きを排除し、あらゆる一瞬の動作の中に、機に臨み変に応じて最も合理的な技を繰り出すことが肝要であると説かれている。
随分前に、宮平先生が、私の弟子に、「君達、右の耳を左手で、左の耳を右手では掻かないだろう。」と言われたことがある。これが合理合法であり、正しいこと、理にかなったことを行いなさい、と教えていただいたことがある。
宮平先生は道場を開設して以来、一貫して指導者づくりに専念されてきた。指導者を養成することが、自分の考える空手道に対する理念の実践として考えておられており、実際、私が修行していた5~6年の間でも、道場で子供の姿を見たことはなく、ただ一人知人の依頼で短期間習いに来ていた中学生以外は、見たことはなかった。
『子供達や初心者を教えるのもいいが、多くの指導者を生み出すことがより重要である。空手を持って社会に貢献することが空手家の道である。』との考えに立ち、『一社会人として立派に通用するというだけでなく、国際社会の中で役に立つ指導者としての空手家が求められている。国際社会が共存共栄を実現していくためにも、人の道として空手家は共生の思想を歩まなければならない。』と語られる。
「究道無限」 …… 空手の道は無限である。深く極めることである。
「自慢せずに腕を磨け。見せびらかさず修行に励め」
「空手の師は、型を教えるだけでなく、人の身体を立派にする責任がある。だから 私(知花)はこの仕事を一生の仕事として、今でも研究を続けている。」
「空手は、災難の時に、人を助けたり愛する家族を守るために使うものである。むやみやたらに使うものではない。」
「口論が激しくなった時には、まず座れ。」
「広い所ばかりで稽古を続けていると、繁華街や路地裏での攻防に一歩遅れをとることがある。」
「沖縄では、相手を見くびった言葉は決して使用しない。常に相手を立て、見くびるな。上には上がいるものだ。」